Profile

佐藤勝太 sato shota

1991年5月29日生まれ

ふたご座

A型

日本国山梨県甲斐市玉川

ROI-ET, THAILAND

 

父は日本人、母はタイ人で僕が生まれた。

両親はタイで産ませようとタイの病院で僕を出産しすぐに日本へ。そこから約15年間1年に4回から5回のペースで行き来していた。

幼稚園の時に初めてイジメにあい、泣きながら帰るといつも親父に怒られそこでまた泣く。

親父にムエタイを無理やりやらされて

小学校に入学しいじめや喧嘩があっても、自分自身を守れるようになれた。

僕は一年に5-6回ぐらい日本とタイを行き来していたので

学校の成績学年で一番下でした。

授業参観のときは両親はほとんどこない。

僕の母はアル中でDVや被害妄想が強く、叩かれたり、包丁で刺されたり何度かされたこともある。周りの親が僕の友達に、佐藤の家族とかかわるな。

と僕の友達から聞いたことがる。

親父もそのDV被害にあって何度か警察沙汰にもなった。

 

中学に入りいい友達悪い友達もたくさん作りながらムエタイ、キックボクシングをしていたら、ソフトテニスもやっていた。

プロテスト間近に目を切ってしまい手術。

プロを諦めたとたん人生の目標、これから何してけばいいのかわからず、悪い仲間とバイクや物、恐喝、暴走行為、傷害、を繰り返し

鑑別所を三回入った。

 

高校なんて夜間の定時制も落ち、

同級生すべて高校へ入学。

僕はアルバイトを転々としながら生活をしていたが、一か月に一回の給料がめんどくさく、手っ取り早くお金を手に入る方法ばかり考えていた。

朝は寝ていて夜はバイクを乗り回し、恐喝、万引きをしたものを売り、女の友達を餌にしてオヤジ狩り。

ある日突然大きなお金が手に入り17歳の頃仲間五人で逃亡旅行。

ネットで車を買い、ナンバープレートが無いのでレンタカーのナンバープレートを付け遊び歩いていた。ある日交差点で信号待ちしていたら突然警察に囲まれていてそこからパトカーとカーチェース。

結局つかまり鑑別所。

窃盗、無免許運転でしょっぴかれた。

 

19歳の頃強盗にてをだした。牛丼店すき屋である。

もちろん捕まり、鑑別所、そこで家庭裁判所で判決が下る。

今までの過去を紙切れに書かれていてそれを一分くらいで裁判官が読み

(2年間少年院に入ってきなさい)と判決が下る。

たった一分で僕のこれからの人生数年数か月が決まるのだ。。。

 

少年院送致。少年院には4つに分けられる。

初等少年院心身に著しい故障のない、おおむね12歳以上おおむね16歳未満の者を収容する。

中等少年院心身に著しい故障のない、おおむね16歳以上20歳未満の者を収容する。

特別少年院心身に著しい故障はないが犯罪傾向の進んだ、おおむね16歳以上23歳未満の者を収容する。ただし、16歳未満の少年院収容受刑者も収容できる。

医療少年院心身に著しい故障のある、おおむね12歳以上26歳未満の者を収容する。

 

 僕はこの特別少年院に送致された。行った場所は神奈川県にある久里浜特別少年院である。僕はここで二年間独房で更生プログラムの教育を受けていた。最初の一週間は自殺や逃亡を考えていたが無理。二週間目は案外に慣れてくる。お風呂は制限時間があり、確か15-20分である。

2-3人で入らされ使う水の量も決まってる。石鹸は月一回渡される。歯磨き粉や歯ブラシは三か月に一回だ。ペースを考えて使わなければならない。

それもまた楽しく考えると楽しくなる。

お風呂に入るとみんな入れ墨が入っている。お風呂の中には看守がいないので隣のやつに話しかけたりいろんな情報を聞いたりしていた。

少年院は朝、職業訓練を行う。少年院によって何をするかわからないが、僕のところはOA科と陶芸科と分かれていた。

鑑別所の時にiqチェックテストがありそれでクラスが分かれているのだと思う。

 

 OAとはオフィスオートメーションの略であり、事務作業の一部をコンピュータなどの機器を利用して合理化すること。

事務部門において、簿記会計、OA化に対応できるように、パソコンソフトを用いて、ワードエクセルアクセスパワーポイントウェブページ作成を学習する。

また、あらゆるビジネスシーンに対応するために、コミュニケーションを学ぶ。

 

それを二年間もやっていた。試験もありる。

僕は準2級をもっています。

 

昼間は一時間ぐらい運動がありその運動が激しすぎる。

腕立て200とか腹筋200とかありえないぐらいキツイ。

夏になるとそれがプールになるがそれもまた大変。

確か院の中でも年に一回は運動会がある。

 

僕が院の中で一番心に残っていることは年に1回ぐらいある白米を食べることだ。いつもは麦ごはん90%の割合。麦ごはんは茶色い。

それが年に1回新年の日に約3日間食べられる。

白米のありがたみやうまさ、がすごく感じられた。

 

それから一か月に一回の散髪、出院2か月前から切らなくて済むのだ。

房の中にいるときは、することがないので読書をしたり、勉強、通信教育を受けていた。僕はそのとき小学生で習う算数や国語、社会など

中学で習う数学、理科、化学、英語を二年間で猛勉強しまくって

英検まで取ることができた。

高校である教科書まであったので高校二年ぐらいまで勉強していた。<時間はたっぷりあったが時間は限られている>

これをいつも自分に言い聞かしていた。

これを自分に言い聞かすと今するべきことが分かるようになる。

僕が好きなことは心理学本や名言集、人生改革本を院にあるのをすべて読みあさった。

 

出院時の時21歳成人を迎えているが成人式をしていない

出院は保護者が引き取らなければならないが、僕の両親はタイに板の出迎えに来れない。

というか迎えに来ないと手紙に書かれていた。<自分の決は自分で吹け>親父の手紙で書かれていた。

少年院に入った時の一番初めの手紙に。

親が迎えに来ないときは院の方から全国何個かある更生保護施設の方にこの子を引き取ってほしいとお願いをします。

それがokされれば更生保護施設へ行くことへなります。

 

出院

 

僕は愛知県にある守山区、立正圓更生保護施設へ行きました。

そこで全国の少年院にいた人たちが集まってそれぞれの

仕事を探していました。

僕は斫りの仕事をした。そこの社長は従業員の方たちはすごい良くしてくれた。

仕事はすごく厳しく、大変だったが汗水流してもらう給料がすごく感動してたまらなかったのを覚えている。半年間後、立正圓と会社に

お別れを言いタイへ旅立った。

 

なぜタイへ行ったかというと自分をもっと変えたかったのです。

新しい自分を知りたかった。

何が起こるかわからないのがまた冒険心に火が付いてそれが行動力になる。

それと自分を変えたいならば環境を変えろ、環境が変われば自分も変わる。

となんかの本に書いてあった。

 

IN THAILAND

 

タイ・スワナプーム国際空港について乗り換えでドムアン国内線へ向かい

roi-et空港に着くと親が待っていた。17歳から親と会っていなかったので両親は泣いて会えたことに喜んでいた。僕の父は今74歳、母は64歳、で

母は身体障碍者になっている。15年ぐらいにアル中で脳出血で倒れ左上半身が全く使えない。あの糞ババと小さいときに思っていたがいざ母が倒れたと聞いて見に行ったときは初めて母のために泣いた。信じられなかったのだ。

母の右頭がごっそりへっこんでいたからです。

 

タイの田舎にきてそこで日本人で32歳ぐらいな兄ちゃんとで会い仲良くなった。

その兄ちゃんは小さなネットカフェを経営していた。

その兄ちゃんと一年ぐらい一緒につるんでいたがある日突然警察から

連絡が入り病院に行ってみると兄ちゃんの体はあざだらけ、顔もはれ上がっている。警察によると事故で川に浮いていたとのこと。

だが普通バイクで事故れば青たんやあざなどほとんどなく、

擦り傷などがあるはずなのだが、全くない。

これは。。。

やられたんだろう。と思った。兄ちゃんは脳死。その後日本から親たちが来て引き取っていった。その後兄ちゃんの容態は全く話が分からない。

 

せっかく仲がいい人と会ったのに突然の別れ、僕も母と同じく朝から晩まで

酒を浴びるほど飲んだ。。。

 それを毎日繰り返しているうちにふと少年院のことを思い出した。

自分の過去を思い出した。それで今を見て駄目だと思い、前を向き始める。

なんでもいいから仕事をしまくった。レストラン、土方、塗装、

タイの一日の最低賃金は300Bである。日本円で大体900円程度です。

日本だと時給でこのぐらい超す。

だが僕は一日200Bで仕事をした。

仕事が終わるとお金をもらい、食事約40-60Bで買う。

タバコは20本入りのものは買えない。約50Bするからだ。

なので手巻煙草を買う。一袋10Bの巻くための紙1B。これで三日はもつ。

それからラオカオという酒がある。一本50Bだ。それを友達と金を出し合い買い

晩酌を始める。それを三年間やっていた。

突然、ふとこの仕事やってるんだったら日本にいた時と変わんないじゃん

そしてグーグルでタイ、観光と調べたらいろんな企業が出てきて

端から全部履歴書を送った。そしたらパタヤにある観光旅行業の会社の社長さんから連絡があり面接に来てほしいとのこと、僕はさっそく返事を送りました。

<面接にいけますが、もし面接に行き、面接に落ちた場合、

田舎に戻るお金がありません>と

するとそこの社長から、それなら来てもらっても構わない。

社宅は出す。給料は最初やすいけど頑張ってほしいと。

すぐに行きます。と返事を送りその二時間後パタヤに行った。

その時の気持ちはもうワクワクで仕方がない。知り合い一人もいないパタヤ。

右も左もわからないパタヤ。不安がもう興奮に代わりました。

 

roi-etからpattayaまでバスで約12時間。タイの長距離バス内はやたらに寒いことです。冷房がかかりすぎているため、半袖短パンで乗ると大変なことになります。トイレはあるので安心、水やお菓子。

休憩時にバスから降りタバコも吸えます。


パタヤにつき、そこの社長さんに雇ってもらい、6ヶ月ぐらい仕事をした後、

他の会社ならまたお誘いがあり、

給料も良かったので移り変わりました。

その後も仕事が変わるごとに給料は上がっていきました!